ABOUT ITALIAKEN

イタリア軒物語

HISTORY

イタリア軒の歴史

ピエトロ・ミオラ

安政6年(1859年)当時の新潟港

イタリア人コック
ミオラと新潟人の出会い

日本初の「ミートソース」が提供された「イタリア軒」。その歴史が生まれるきっかけは、約150年前に開港した新潟港にフランスのサーカス団「スリエ曲馬団」がやってきたことにさかのぼります。

その中の一人、イタリア人青年でコックだったミオラは、大けがを負ったことがきっかけで、新潟に残る決心をしました。そんな青年ミオラを、医師の竹山屯が治療にあたり、舞妓のお千が身の回りの世話をしました。

そして、当時の県令・楠本正隆が、ミオラに牛鍋屋を開くことをすすめ、資金を出してくれました。ミオラは親身になってくれた新潟の人たちと心を通わせ、明治7年(1874年)に営所通一番町に新潟初の西洋食品店をオープンさせます。

日本で初めてイタリア人が開いた
レストランの誕生

店は大繁盛し、赤毛の異人、ミオラは人気者になります。お千とも夫婦となり、新潟の街で幸せな時を過ごしていました。

しかし、明治13年(1880年)の大火で店は焼失してしまい、ミオラはショックをうけます。イタリアへ帰ろうと思い悩むミオラを周囲の人達が励まし、現在「ホテルイタリア軒」の立つ西堀に日本で初めてイタリア人が開いたレストランを誕生させました。

お千の発案で「イタリア軒」と名付けた瀟洒(しょうしゃ)な洋館と料理の味はこのとき生まれます。イタリア軒は、時代の最先端をいくレストランとなり、「これぞ新潟の鹿鳴館」と誉めたたえられました。

明治14年(1881年)の初代イタリア軒

2代目イタリア軒 
大正12年~昭和5年(1923年~1930年)

3代目イタリア軒 昭和6年~昭和48年(1931年~1973年)

ミオラの想いが生きつづける

新潟の地に新しい食文化の風を吹かせ貢献し続けたミオラも、在日30余年で望郷の念やみがたく、単身で故国イタリアへ戻り、大正9年(1920年)11月に故郷チュリン市で波瀾の生涯を閉じたといわれています。

それから1世紀、ホテルに生れ変わった今も、ホテルイタリア軒のレストランには、ミオラの創った「イタリア軒の味」が生きつづけています。

ホテルイタリア軒の館内やレストラン内にも様々な過去の写真や資料が飾られています。新潟の洋食文化の歴史に触れてみたい方はぜひ、イタリア軒の歴史と今なお続くイタリア軒の味をたのしんでみてください。

COMMITMENT

イタリア軒のこだわり

新潟初の本格西洋料理レストラン「イタリア軒」は、約150年、新潟市民とともに変わらぬ味を守りながら歩んできました。

当時から多くの新潟市民に「ご馳走」として愛されてきた思い出の味を求めて、今もホテルイタリア軒を再訪されるお客様が少なくありません。

オープン当初から3度の火災に遭う中でも、日本で初めて提供されたといわれるミートソース、「伝統のボロニア風ミートスパゲッティ」のレシピは口伝えで残り、現代もリストランテマルコポーロのシェフにタスキを繋ぐように受け継がれています。ミオラが作った「イタリアの家庭の味」を再現したミートソースは、ほっとする優しい味で老若男女世代を越えて味わっていただけます。

イタリア軒は、当時から愛されてきたメニューを大切に、そして同時に時代とともに変化し続ける「ご馳走」をご提供できるよう、料理・サービス共に挑戦し続けています。

  • 初代イタリア軒。明治14年~大正11年(1881年~1922年)

  • 2代目イタリア軒。大正12年~昭和5年(1923年~1930年)

  • 大正15年(1926年)の宴会場。

  • 昭和6年(1931年)新館落成記念パーティー。新館の屋上で挙行された。

  • ミオラの意思を継いだ、鋤焼き場。昭和6年(1931年)頃。

  • 昭和初期のメニュー。昭和3年(1928年)頃。

  • 戦前の婚礼メニューと宴会メニュー。当時はフルコースが基本でした。昭和10年(1935年)頃。

  • 会員制の撞球場。後に新潟商工会議所に寄贈される。昭和15年(1940年)頃。

  • 戦前の婚礼風景。テーブル装花とキャンドルなど現在の基礎が既に完成している。昭和15年(1940年)頃。

  • 戦前のダンスパーティー。昭和15年(1940年)頃。

  • 戦前の正餐テーブル。昭和15年(1940年)頃。

  • 「鹿鳴館の再来」と賞賛されたメインロビー。丸型の照明器具は2階ロビーに今も健在。昭和15年(1940年)頃。

  • 戦後の結婚披露宴。昭和25年(1950年)頃。

  • 旧舘1階ロビー。昭和25年(1950年)頃。

  • 閉館間近の昭和48年(1973年)当時のイタリア軒。